高架下

すずろに書くよ

会話と対話と言語のお話

こんにちは、1のやです。今回は会話と対話についてのお話です。言語に対してちょっと変わった見方から、なぜtwitter等では会話が成立しにくいのかについて考えていきます。長くなりそうなので以下、常体を用いていきます。

会話と対話について

まず前提として、この場における会話と対話の定義をしておこうと思う。会話とは言語を介したやりとりそのものを指す。一方対話は、単に意思疎通を意味することとする。コミュニケーションと訳してもいいかもしれない。ここで意識しておきたいのは対話には言語的な要素がなくてもよい、ということだ。そしてこのように定義した場合、「会話がなりたたない」ことの多くは「対話が成り立たない」である。

対話に関して掘り下げる

対話の歴史は深い。対話が単なるコミュニケーションそれ自体をさすのであれば、人間に限らず多くの生物が行うため、その歴史は数千万年にも上るのではないかと思う。言語を介さない意思疎通は実は日常にありふれている。いくつか例を挙げてみよう。ボードゲームや対戦ゲームをしていると想像してほしい。あなたは対戦相手がなにを考えているか、どう考えているか、なにをしようとしているのかを常に考え続ける。そして、自分の行動が相手に影響を与え、それによって相手がどう考えたのか、また、どう考えるのか、どう動くのかを考える。これは対戦相手も同様に自分のことを考えている。俗に読みや、読み合いと表現されるこの行為は相互が相互の思考や行動を必死に理解し合おうとしているというまさに対話である。この場合、ルール上の縛りやリスクリターン、マストカウンター等の要因により一定の判断基準が設けられる。

より日常的な例もある。歩道を歩いているとき、道の向こうからこちらにやってくる人がいた、と仮定する。このときお互いに避けようとして結局鉢合わせて足がとまってしまった。これは多くの人に経験があるのではないだろうか。このとき、言葉こそ一言たりとも発していないが、相手のことをよく観察して相手の心理を考えている。衝突を避ける、という単純な共通の目標を見ず知らずの他人と言外に共有し、相手が避ける素振りをしているか否か、またはどちらに避けようとしているのかということを考え、自分と相手がぶつからないようにしている。これこそ根源的な意思疎通であり、対話である。一つ目の例は、自分が勝利するという目標をお互いが持っており、対話こそしようとすれど、その結果は相手を負かすための行動をとる、相手の嫌がる行動をとる、となっている。二つ目の例はお互いに共通の目標を持っており、それを実現するために相手のことを深く考え、衝突をさけるように行動する。このどちらも対話であるが、日常生活においてよく出会う場面は後者のほうだろう。ここでTwitter等でのリプライで攻撃してくる人間と会話が成り立たない理由の一つを見出せる。一般多くの人は上の例のように衝突を避けようと対話しようとしている。相手に自分の意見を4割でいいからわかってほしいなど、緩い期待で対話に臨む。一方、攻撃してくるものは衝突をさけるために対話するのではない。むしろ一つ目の例のように相手を打ち負かすためにリプライをしてくる。いや、そもそも対話しようとはしていないのである。一つ目の例では、二人は相反する目標をもってはいるものの、目標が相反するという認識は共有している。それによって対話が成り立っていると言ってもよい。しかしSNSで攻撃してくる者と攻撃される者の構図は一方が衝突を避けるための対話を望んでいるのに対し、もう片方は打ち負かすために対話を拒否している。歩道の向こうから歩いてきた赤の他人が、わざわざ予め自分が避けた方にぶつかりにくるようなものである。結果ぶつかったからといって攻撃された側が嘆き悲しむ必要はまるでない。こちらは対向者がぶつかりにくるなんて考えていないのだから避けられなくても仕方がないからだ。

それでもぶつかりたくないという人はどうすればよいか。最も簡単なことは人通りの少ない道を通ることだ。ここでの人通りとはいうなれば界隈の大きさである。界隈が大きく、人通りの多い道を歩いていれば他人と衝突しそうになることも、攻撃してくる人間に遭遇する可能性も高くなる。他にも、小学校の近くを歩かない、法定速度を守る等々対処法はあるのだが......。

本題に戻って次に会話について考えよう。

会話に関して掘り下げる

一方で会話の歴史は浅い。かつて人間が対話するにあたって補助的に発明したものが会話である。つまり、会話とは対話という目的を果たすためのひとつのツールでしかなかった。ある日、人間が言語を開発して以来、その利便性は急速に発展していき、ツールとしての役割を超えて使われ始めた。文字が誕生してからは、その情報伝達の正確さたるや距離や時間に縛られることなく、遠くの未来人にまで自分の思考を正確に伝えることさえ可能であった。そして文字は簡易な線や点の集合に意味をつけるという画期的な枠組みを形成することで、絵を用いた伝達等に要していた時間を大幅に短縮することに成功するとともに、それら従来のツールを衰退させることになった。かくして、言語と文字は対話への唯一のツールという立場を獲得し、もはや人は言語のみが対話を成り立たせるものであると信じて疑わなくなり、ついには言語のやりとりそのものが対話であると考えるようになってしまった。

だが上に述べたように言語は対話へのツールにすぎない。そしてツールというからには当然その欠点もある。言語の欠点は会話を行う「両者に」同等の高度な知識が求められるという点だ。例えば、日本人と外国人とでは十分に会話できないことは想像できるだろうが、これはよく使う言語が異なるからという単純な理由による。日本人同士で会話が成立しない理由も実は同じ次元の話だ。会話に参加している人間の間にある知識の差は同じ言語を使っている程度では埋められないものだ。住んでいる地域や環境による常識の差はもちろんあるが、それを理解するのにも知識、特に語彙が必要なのである。言語が登場して以来、人間は言葉を用いてしか世界を理解できなくなった、というのはしばしば聞く話だが、世界に対する理解が貧弱であることはすなわちこの世界で通用している論理も理解できないということになる。会話を成立させるのに必要な論理的思考力はその前提として知識が不可欠なのである。例えば、「他人」という概念が存在しない人がいたとしよう。彼にはもちろんその対立概念である「自己」も存在しない。そのような人物と会話が成り立たないであろうことは容易に想像できるはずだ。少なくともこの記事が言わんとすることは理解できないだろう。

会話が成り立たないことに寛容になる

これはやや大げさな見出しである。しかし、これ以外の解決は自力では厳しいだろう。前述したように会話は対話へのツールでありながら、その利便性から唯一のツールになった。そのことに対して正しい認識がある者は少ない。この認識のずれが大きいだけでなく、言語を用いる会話には相当な知識をも要する。この知識(それに基づく認識)の齟齬が我々をいら立たせている。単純に言葉を投げ合っている双方で見ている世界が異なるのだ。そしてこれを原因とするすれ違いは、より世界を広く認識できている者が認めるほか解決はない。知識が乏しく、認識もずれているような相手に対して、これを1から説明して納得させることは至難の業だろう。私にはそれができる人間が存在することさえ想像できない。(これは私の世界の狭さゆえかもしれないが)

やはり、相手の能力、知識、認識を認めるしかあるまい。本来面と向かって話し合い、その場の雰囲気、話し方、表情、抑揚、コンテクスト等々、様々な因子があって初めて対話は成立するものである。それなのに、その道具のひとつにすぎない言語のみに頼って、さらにはTwitterではその言語すらも文字数によって縛ったうえで対話しようとしているのである。不特定多数に発信する場合には相手の状況、状態さえも多種多様で知り得ないというおまけがつく。この条件下で対話が成り立たないことは自明だろう。もはやこのような条件下では対話も、あるいは会話すらも成立しないと観念するしかない。そのために最低限必要な考えは、「相手に期待しないこと」、これに尽きる。相手に期待していなければ、すれ違うことはこの条件下において当然のものとして受け入れられるであろう。決して、相手を言い負かそう、自分の主張を認めさせようとしてはいけない。より広い認識を持つ者は、そのような人間もいることを、制限された言語だけでは意思疎通はできないことを、知って認めなければならない。相手に自分の知っている世界の事実それ自体を、飾りなく伝えてその話はそれで終わらせる。ただそれだけでよいのだ。

 

ずいぶんと長くなったうえに月並みな結論になってしまい申し訳ないが、大切なのはその過程の対話と会話と言語に関する部分である。このような考え方も存在するということが、ここまで読んでくれた方々の認識と世界を少しでも広げることに成功したのなら幸いです。ここまで読んでいただきありがとうございました。普段は大物Youtuberの話とかしてます。ではまた別のお話で。